現在まで新聞や雑誌等、テレビ以外に登場した「河辺啓二」をすべて掲載しておこうと思います。とはいえ、散逸したものも多く、見つかったものから順次、以下に示して行きたいと存じます。

投稿3連発again

朝日新聞・読売新聞 投稿
2010/9,10,11  掲載記事

98日付け朝日新聞「声」に『「TV大事」議員 国民も反省必要』、1013日付け読売新聞「気流」に『中国の圧力屈せず平和賞授与に感嘆』、1119日付け朝日新聞「声」に『農業は経済だけでは測れない』が掲載されました。


投稿3連発

朝日新聞・読売新聞 投稿
2010/2,3  掲載記事

2月20日付け朝日新聞「声」の『技術立国へ「理工系冷遇」正せ』、3月9日付け読売新聞「気流」の『効果あるワクチン公費助成を進めて』に続き、3月27日付け朝日新聞「私の視点」に私のopinion『日本脳炎 ワクチン未接種者に配慮を』が掲載されました。


東大か医学部か

週刊朝日 2005/10/25 掲載記事

東大と医学部の両方を経験した先輩たちはどう思っているのだろう。
「東大に入れば安泰というのなら私のように転身する人間はいない」

と言うのは、群馬県太田市の木崎クリニック院長、河辺啓二医師(50)だ。河辺さんは、東大工学部卒業後80年に農水省に入省し、総務庁(現総務省)勤務を経て、33歳で東大理Ⅲ(医学部)に再入学、医師になった。キャリア官僚を10年間、医師を10年間という経験から「やはり学歴より資格」と言い切る。

「10代で医学部を目指すというのは、ある意味すごく大人。私はそうなれなくて理Ⅰに行った。東大を出たからと言って、充実した人生を送っている人ばかりではない。大企業に行っても、いまや東大というだけではトップは難しい。役人になっても課長補佐で年収300万円(当時)。結局、政治家や財務省の顔色を見ながらの仕事だし、国のためというより天下り先の確保といった『組織の維持』が重要でむなしかった」

2年ほど前、20年ぶりに理Ⅰの同窓会があった。
「みんな大手メーカーのエンジニアや、大学教授になってましたが、結局、ほとんどが普通のサラリーマン。とても優秀だったヤツもいまは地方の現場所長くらいで、『理系はこんなもんかなあ』というのが正直な印象でした。将来の保障という意味では医師のほうがあるでしょうね。不況とはいえ、働き口もあり、相対的にはまだまだ恵まれている。小金もちには、なれますよ」


「官僚と医師はなぜ同じ過ちを犯すのか」書評

日経ビジネス 2005/01/31 掲載記事

本を出すようになって書評的なものを書いてもらうことがあります。別添ファイルは、2005年1月31日号の『日経ビジネス』(日経BP社)の書評に慶應義塾大学の有名教授が書いてくださったものです。まったく予期せず、たまたま読んだ兄からの報告やインターネット(「河辺啓二」の検索)で知ったものです。嬉しかったですね。


振り返れば徒労が霞む

AERA 1993/09/28 掲載記事

河辺啓二さん(当時38歳)は、東大医学部の学生になって5年になる。その前の10年間は、農水省のキャリア官僚だった。

「初めの1年間は必死でしたけど、2年目になるとどうも違うなぁと感じ始めて」

東大工学部を出て官僚になったのは、技術系よりも社会科学の方面に進みたいと思ったのと同時に、熱気あふれる俊英たちの群像を描いた城山三郎の小説『官僚たちの夏』の影響あった。

「あこがれましたねぇ。天下国家ために働くってのはいいなって。民間企業は結局、利潤の追求だし。純粋にそう思っていた」

農家の7人兄弟の末っ子ということもあって、農水省に入った。

しかし、天下国家のための仕事というより、天下り先の確保といった「組織の維持」に大きな精力が費やされているように映った。

ひどい時には日に1万枚ものコピーとりに追われた。夜は、特に仕事がなくても職場で何となく酒盛りが始まる。職場にいること自体を美徳とする雰囲気があった。国会開会中ともなれば、なおさらである。

お決まりの政治家の質問とりもやった。与野党問わず、資料請求があれば走り回って決済を取らなければならない。秘書にまで威張られ、なんでペコペコしないといけないのかわからなかった。本当に国のためを考えている政治家なんているのか、と思った。

緊縮財政で、予算をいかに削るかという時代。当然、面白みはない。予算を握っている大蔵省は威張っている。アンタのカネじゃないだろう、と腹も立った。

課長補佐で年収300万円

農林水産技術会議の事務局に移り、生物系特定産業技術研究推進機構の法案作りにチームで打ち込んだ。86年に成立した、民間の技術研究を後押しする制度で、深夜3時まで働き、週末も出勤という日々が数ヶ月間続いた。

優秀な同僚に囲まれての仕事で、やりがいはあったが、「物理的貧しさ」を感じた。忙しいときは、月200時間の残業で手当ては5万円。妻子を抱える課長クラスの上司は、買い出しの弁当のメニューを見つめ、結局500円以上のものに手を出すことはなかった。「給料の安さも、辞めた理由のひとつです、これでは優秀な人が民間企業に行っちゃいますよ。10年勤め、課長補佐で年収300万円なんて。アルバイトでも稼げる」

このままでいいのだろうか。役人になって身についたことって何だろう。言質を取られない文章や、閣僚の挨拶文を書く技術だけに長けて。そんなの世の中に通じない。50歳前後になり、後輩の世話で天下りして、結局役所に依存して生きてゆくのか。

自分はお人よしで、冷徹さや駆け引きのうまさといった完了に求められる資質が欠けている、とも思った。

総務庁に出向して2年目に、意を決して医者になる受験勉強を始めた。患者を治すという仕事なら社会にも貢献できるし、充実感もあるだろう。お人よしでもいい、とも考えた。

帰宅後に深夜まで勉強し、片道20分の通勤電車でも参考書を開く生活を1年続け、東大医学部に合格する。そして退職、結婚。2人の幼子を抱え、共働きをしながら医者を目指している。

官僚の地位を捨てるのは、それぞれの個人的事情も含め、さまざまな理由が絡んでのことだ。


思えば、中学生のとき、あまりに過疎地だったため、隣町の中学校と統合することとなり、その統合式の際、学校代表で挨拶したことが地域の新聞『愛媛新聞』に小さい記事ながら写真付きで報じられたのがマスコミ初登場だったかなぁと思います。(さすがにそのときの新聞は紛失している)

その後は、当時は行われていた『サンデー毎日』の東大合格者名簿(現在は個人情報うんぬんでなくなったが)に氏名のみ掲載されたものです。14年後の理Ⅲ合格のときも載りました。更に、官僚新人のとき、農林水産省がなぜか当時の大蔵省、通産省と同等扱いされて同誌の「主要官庁上級職採用者氏名」に氏名が掲載されたことがあります。

本格的なマスメディア露出は、開業医になって本を出すようになってからですが、医学生のとき、『愛媛新聞』と朝日新聞の『アエラ』に大きく載せてもらいました。さすがに全国版の『アエラ』は反響が大きかったようです。後年、開業医になって理科Ⅰ類の同級会に出席したとき、「『アエラ』読んだよ」と言われたものです。