河辺啓二回顧録(Ⅲ):職業選択編①少年時代~工学部生時代

〈少年時代に憧れていた職業〉

私が子供の頃なりたかった、憧れの職業は、漫画家だった。河辺家は、大雑把に言って、運動や音楽は大したことはないが勉強と図画工作はできる家系である。私がその典型だろう。さすがに古い話なので記憶が定かではないが、小学校の通知表は、算数など「お勉強」の教科は5が並ぶも、体育は3(ひどいときは2だったか)、音楽も3(縦笛を頑張って4か5のときもあったかなぁ)だった。

小学校の「図画工作」も中学校の「美術」も、いつも5だった。ただ、芸術的な絵よりも、マンガのほうが好きだった。最初は鉛筆で描いていたが、必要な道具を調べて買って、本格的にインクを用い描くマンガに挑戦し始めた。当時は、手塚治虫などのマンガを真似したりしたこともあったようだ。自宅学習が殆ど不要だった小学校時と違い、中学校、高校ともなると、勉強が忙しくなってだんだんマンガ描きをしなくなっていた。

マンガを再度描き始めたのは

マンガを再度描き始めたのは、一浪後東大に入って、少年時代の夢をもう一度と「漫画倶楽部」に入部してからである。ただ、ここで「劣等感-挫折感」を抱く。私より絵のうまい人が幾人もいて(もちろんそうでないヘタクソもいたが)「勝てないな」と思った。つくづく自分のマンガの才能のなさを痛感し、漫画家への夢は潰えてしまった。有名漫画家を多数輩出している早稲田大学漫研に比べ東大卒業の漫画家は見当たらないし・・・。

更に、同部は麻雀好きが多く、マンガより麻雀という日常に陥ってしまったのだ。浪人時代の鬱憤を晴らすべく麻雀にのめり込んでしまったのだ。若気の至りだった。

〈暗澹たる東大理Ⅰ時代〉

そもそも高校時代、将来やりたいこともなりたい職業も特になく、なんとなく、周りに流され(当時理工ブームであったことは確か)、苦手科目も特にないので理系クラスに進んだ(進んでしまった)。東大に入って、理工系の勉強より法律や経済のほうが興味あるなぁと感じても、理系から法学部・経済学部に進学するには好成績が必要であった。東大は、1年~2年前半の成績によって進学先の学部が決まる「進学振り分け(略して進振(しんふり))」がある。文科Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ類、理科Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ類から進学する学部学科は科類ごとにおおよそ決まっており、理学部・工学部コースの理Ⅰから法学部・経済学部に行くには高得点が要求される。傍系進学者の定員は少数のため競争率が高いからだ。(ちなみに、森永卓郎氏は理科Ⅱ類から経済学部に進学している。私と違って真面目な学生だったに違いない)

麻雀という快楽に溺れ、現(うつつ)を抜かしていた私に高い平均点が得られるはずはなく、当時公害問題で人気のなかった工学部応用化学系くらいしか進学先はなった。

〈エンジニアにはなりたくないし〉

教養学部の駒場から専門課程の本郷に通学先が変わり、「しかたない、真面目に工学の勉強をしようか」と当初は思って(麻雀はあまりしなくなるなど)私なりに努力はした。しかし、やはり、実験や機械操作は好きになれず、将来の進路を悶々と考えるようになった。

当時の理系学部の学生がメーカーのエンジニアになるのではなく、文系的な会社に就職する例としては、商社、損保会社、銀行などがあった。実際、4年生のとき、会社訪問で商社や損保を受け、内定をもらった大手企業もあったのだ。

〈霞が関のキャリア事務官に憧れる〉

3年生のとき親しい経済学部の友人から借りた「官僚たちの夏」(城山三郎著)を読んで官僚に強い憧れを抱くようになった。「民間企業に入って利潤追求をするより天下国家のために働くほうが生き甲斐があるのでは」と感じるようになった。理系学部からも専門分野の試験を受けて官僚になれるが、それは「技官」であって、官僚の世界では「事務官」の後塵を拝する。「国家公務員試験上級甲種」の試験区分「行政・法律・経済」に受かりさえすれば、出身学部に関係なくキャリア事務官になれること、そして、官僚の世界では何の学部を卒業したかでなく、何の試験区分で受かったかで昇進出世がある程度決まるということを知ったのだ。そこで、理系学生が最もとっつきやすい経済学を勉強しようと思い立った。当時の「行政職」は競争率100倍超えだったし、東大法学部卒の連中が大挙して受ける「法律職」はしんどいと思った。「経済職」の試験は、ほんの一部の法律(憲法、民法、商法)の問題以外9割方経済学の問題だし、少なくとも経済学で必要とされる数学は、経済学部の学生には負けないだろうと自負していた。

〈こっそり受験勉強開始〉

エール出版の国家公務員試験合格体験記を熟読し、教科書を買い集め、経済学の知識ほぼゼロからスタートし、3年終わり~4年始めの約半年間、大学受験勉強なみに勉強した。「官僚たちの夏」と並んで当時の私をインスパイアしてくれた本「独学のすすめ」(加藤秀俊著)のおかげでもある。ほぼ独学ではあったが、時間があいたときは、経済学部の講義を聴きに行った(「もぐり学生」いや「他学部聴講」だ)。館龍一郎先生の「金融論」など聴いた記憶がある。

といっても、工学部の卒業研究があり、日中は大学に行って実験漬けであった。ただし、実験の合間に化学反応が出てくるまでの待ち時間が多々あり、その「細切れ時間」を利用して、実験台の傍らで経済原論の教科書を読んでいた。もちろん、先生や友人にはバレないように。

(この約十年後、官僚やりながら医学部に入るための「こっそり受験勉強」を再びすることになる)

〈工学部生時代助教授から勧められた就職先〉

東京大学工学部工業化学科在学中、担当助教授から勧められた就職先があった。自分で会社訪問して就職先を見つける法学部、経済学部等文系の学生と異なり、理工系の学生は、(卒論作成のために)所属する研究室の教授や助教授から就職先を斡旋されるのが通例であった。

「帝国石油」という会社だったと記憶している。なんとなく理工系に進み、好きでもない実験や機械機器操作をしているうちにますますエンジニアは自分に向かないと思っていた私は即座にお断りしたと思う。その頃「こっそり受験勉強」を始める前だったか後だったか覚えていない。

→官庁訪問奮闘記、そして国家公務員試験合格は 河辺啓二回顧録(Ⅳ):職業選択編②へ

前の記事

『ゴジラ-1.0』は名映画だ