ぶっちゃけトークバトル告発のゆくえ芸能人SP(フジテレビ)

2006/12/24(日) 16:20~17:25

奈美悦子さんの掌蹠膿疱症に係る医師糾弾に対する擁護役として、慶応大学医学部教授と一緒に白衣姿で出演。12月10日(日)、東京・台場のスタジオで収録。

私にしてはうまくしゃべれたと思うも、実際の放映では、私の簡単な紹介のほかは、ほとんどすべてカットされていた。ほかのコーナーでも、素人の発言はごくわずかに削られるか、最悪の場合、完全に編集で消されていた方もいた。(取り上げられるのは芸能人ばかりなり)

2007年9月23日(日)16:05~17:00に再放送ありますと、TV局からわざわざFAXが届き、「なんと親切な」と思って見たら、見事私の出演箇所はカットされていた(なんでFAXくれたんや?)

出演者 : 上田晋也、有田哲平(くりぃむしちゅー)/奈美悦子/西川史子/野村沙知代/野口健 ほか

太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中 (日本テレビ)

2006/6/30(金) 20:00~20:54

マニフェスト:「天下りしたら時給500円にします」

記念すべき「太田総理」初出演。

6月20日(火)夜、診療後の木崎クリニックに東京からスタッフが3人も来てくれて取材を受けた。このときの取材VTRも本番に放映された。

東京・汐留のスタジオで、6月26日(月)夜に収録。約20人の「議員」の1人として出演。3年前「タックル」で共演した参院議員の藤末健三氏と再会。

また、以後、面識を持っていただく、有田芳生氏(現参院議員)、若林亜紀氏(ジャーナリスト)、ケビンクローン氏らと初めてお会いした。

このような有名人多数の中にあって、非国会議員の元官僚が私だけであったためか、あたかも私が主役のごとく、放映では、予想以上に多く登場させてもらった。(←あとにもさきにもこれが私にとって最高の「画面登場率」の番組だったと思う)

出演者 : 山本モナ/原口一博/平沢勝栄/河野太郎/大村秀章/鈴木宗男/井沢元彦/松本明子/高橋ジョージ/和希沙也/ふかわりょう/藤田志穂/安藤和津/城咲仁 ほか

ビートたけしのTVタックル(テレビ朝日)

 2004/2/9(月) 21:00~21:54

やはり官僚問題がテーマ。

今回はスタジオでなく、六本木ヒルズのスタジオで収録したもののVTR出演だった。(よくあることだが)予定したものよりずいぶん切られて放映された。しかも河辺の「河」が「川」となっていた。時間に追いまくられるTVの世界のこと、こんなの、日常茶飯事なのだろう。

〔収録は1月24日(土)〕

出演者 : ビートたけし/阿川佐和子/大竹まこと/江口ともみ

テスト・ザ・ネーション(テレビ朝日)

2003/11/3(月・文化の日) 19:00~21:48

以後、何度か1、2年ごとに行われているが、これが初回。

私は「医師」チーム50人の1人として参加。職業柄、白衣着用を指示された。初めての生放送なのだが、50人もの医師が(多忙なはずの業務を離れて)簡単に集まるとは驚きだった。ほかに「東大生」「巨乳」など50人チームがいくつも参加しており、総勢数百人の「出演者」がいたため、私はほとんど埋没していた。

出演者 : 古館伊知郎/小池栄子

ビートたけしのTVタックル(テレビ朝日)

2003/7/14(月) 21:00~21:54

「河辺啓二」生涯初のテレビ出演が、この人気番組だった。

「官僚」がテーマ。パネリストではなく、ゲスト(?)元官僚3人の1人としてスタジオ出演。ほかの2人とは、このTV出演後、民主党議員となった田村謙治氏(衆)と藤末健三氏(参)である。TV初出演の初々しい(?)私は、たけしや大竹まことの毒気を浴びてしまう(笑)。

このとき、田嶋陽子先生から「声が小さい!」とお叱りを受けるも、このときの出会いを機会に、以後、面識を持っていただくことになる。

〔収録は7月5日(土)〕

出演者 : ビートたけし/阿川佐和子/大竹まこと/江口ともみ/田嶋陽子ほか

私が、いやしくも公共の電波に乗ってテレビという画面に顔を出させていただいたのは、以上ですべてだと思います。ビデオテープやDVDで録画し、残してはいるものの(初期の頃は、オンボロテレビに故障がちなビデオデッキしかなく、ましてやDVD録画機もなく、よく友人にお願いして録画してもらったものです。協力してくれた方々に感謝申し上げます。)、観返したことはほとんどない。いつも「ああ言えばよかった」「こう言えばよかった」と後悔と反省に打ちひしがれるからです。
〔将来、私が亡くなった後にでも家族に観てもらって偲んでもらえばいいかな・・・。〕

いずれにせよ、芸能人でもなく、政治家でもない、一介の町医者の私が、全国放送の、しかも、かなり高視聴率の人気番組に十何回も出演させていただいたということは、ある意味「快挙」でした。テレビ業界では視聴率1%で100万人観ているなんていうそうですが(私は数十万人ではないかと思う)、そうだとすると、(私の出た番組は10%強が多いので)1000万人もの人が私の顔と名前を観ていたことになるのですね(←ちょっと感動)。まぁ、すぐに忘れ去られていますが・・・。

以上のように、順調にTV出演を果たしたものもあれば、以下のように、話の途中でキャンセルされたもの、こちらから辞退申し上げたもの、撮影までしたのにボツになったものがあります。参考までに、ここにお示しします。

まぼろしのTV出演

●2010年5月22日(土)午後、日本テレビ・朝の報道番組「スッキリ!!」から電話来る。
24日(月)に天下り問題やるので生出演しないかと。
やはり、代診どうしようかと考えている間に、再度電話来る。
「出演交渉中だった蓮舫さんが出演することになったので、河辺さんは結構です」と。
蓮舫にかないっこないわな。(ほとんど毎朝観ている番組だけに残念。)


●2010年5月6日(木)午後に、3月27日付け朝日新聞「私の視点」の私の投稿「日本脳炎 ワクチン未接種者に配慮を」を読んだNHK記者から連絡あり。
「日本脳炎ワクチンについてNHK夕方の「首都圏ネットワーク」で報道したい。
ついては、木崎クリニックに取材に行きたい」とのこと。

その後、何度か電話とメールでやりとりする。「これから企画書を社内で上げていく」というメールをもらったが最後、以後、音沙汰なし。
企画倒れか・・・。
初のNHK出演、しかも、純粋な医療問題での出演の夢、破れたり・・・。


●2008年9月24日、テレビ朝日「TVタックル」のディレクターから電話が来る。
10月6日オンエアの官僚特集で、元官僚の1人として出てみないかと。
ただ「官僚批判する立場で発言してほしい」と言われたため、(今までの自分の官僚擁護スタンスと違うので)難色を示しているうちに、後日「出演は結構です」との連絡あり。


●2008年6月17日、テレビ朝日「大胆MAP」から電話から来る。
7月13日オンエアの転職コーナーで紹介したいと。後日、担当ディレクターとメールやりとりするも、結局辞退することに。


●2006年1月11日、年末から誘われていた、テレビ朝日のある番組(何かマニフェストのようなものを主張する番組)に出演するためのオーデションに参加した(テレ朝で)。
白衣まで着て参上。
テーマは何でもよいということだったので、持論の「理系優遇論」をぶちまけた。
審査員は丸山和也弁護士と松居一代さんだった。
私の話を聞いた丸山さんは「高校のとき、すごい優秀なやつが理系にいたけど、確かに今あまり恵まれていないねぇ」と頷いてくれた。が、結果は落選だった。
後日のオンエアでは、プレゼンテーターの出演者は有名人がほとんどで、その一人は田嶋陽子さんだった。
もし、受かっていたら、スタジオで田嶋先生に再会できたのになぁと残念がる。


●ずっと溯って、1990年頃の話。当時、東大教養学部理Ⅲ生だったときのこと。
以下、拙著『おじさん医学生奮闘記』(エール出版社)から抜粋。
「実は、理Ⅲの学生のとき、フジテレビだったかテレビ朝日だったか忘れたが、やはり官僚を辞めた人間の特集ということで、取材の話が来た。
まず、自宅に担当者から電話がかかり、私も調子に乗って政治家や官僚の悪口を言っていたら、後日是非取材したいということになり、駒場のキャンパスで待ち合わせることとなった。
当日は、生憎小雨降る天気だったが、テレビ局のスタッフが何人か来ていた。インタビューは、学生食堂の中で行うことにした。
ライトに当たって緊張したせいかもしれないが、私の話に先日電話でまくし立てた勢いがなく、インタビューアーもがっかりしたようだ。
実は、政治家批判はともかく、官僚批判は、まだ現役でいる多数の友人達に悪いと思い、あまり出来ず、更に生来の口下手さが前面に出てしまったのだ。
インタビューの後、「同級生と一緒に歩くところを撮らせてください」と言われ、若い同級生何人かと談笑しながら歩くシーンを撮ってもらって取材は終了した。
結果は、「ボツ」であった。私の代わりに通産省(現経済産業省)を辞めて父親のホテル業を継ぐことになった人のことが報じられていた。
私は、そんなにテレビに出たいとも思っていなかったので、たいして失望もしなかった。
ただ、一緒に撮影した若い同級生の中にはテレビに映りたかった人もいて、その人達にはすまないと思った。」