河辺啓二回顧録(Ⅰ):海外在住編

〈人生に悔いあり〉

だんだん年齢、いや馬齢を重ねてくると、過去のことを振り返ることが多くなるも、正確に思い出せなくなってきていることに忸怩たるものを感じる。

人生に後悔のかけらもないヒトはいないはずだが、まず一つ、自分には海外在住のチャンスがなくはなかったにもかかわらず、一度も海外に住んだことがない、つまり海外留学も海外勤務もしたことがないのが今になって多少なりとも残念に思っている。英語のnative speakerの早い喋りが聞き取れないときに、特にそう思う。

〈英語力の全盛期は過ぎてしまった〉

私の英語力のピークはいつだっただろう。大学受験の総学力のピークは、もちろん東大理Ⅲに受かった33歳のときに違いない。ただ、英語1教科に関して言えば、リスニング力・スピーキング力も含めた英語全般の実力は、大学再入学して数年後(30歳代半ば)の英検1級合格時がピークだったと思う。「読む」「書く」はできても、「話す」、特に「聞く」は苦手で、このため、読み書き中心の1次試験に受かっても「話す」「聞く」が試される2次試験で何度も苦杯をなめたものだ。だから、医学部の勉強のかたわら、2次試験対策を必至に頑張り、やっと最終合格できたときはとても嬉しかった。

〈ラジオ講座復活できず〉

医師になり、診療という仕事に忙殺されていると、英語に接する機会がどんどん減っていくのに比例して私の英語力もどんどん低下してきたことは否めない。たまに英語ができる外国人患者と話すことがあっても、殆どがアジア人の非英米人だから、わかりづらい英語だ(相手もそう思っていることだろう)。あまりに英語力が低下するのは忍びがたく、早朝のNHKラジオでドイツ語、フランス語にプラスして「ラジオ英会話」を毎日聞くことを日課にする時期も断続的にあった。この「ラジオ英会話」は講師が遠山顕(2008年度~2017年度)のときは私ら社会人向きでレベル的にもちょうどよかったが、2018年度から大西泰斗に講師が変わってからは内容がやや高校生向きっぽくなったようで、ちょっと聞く気がなくなってしまった。もちろん、大西氏は秀逸した英語教育者であるとは思うのだが。

〈NHKラジオ講座といえば〉

 NHKラジオといえば、私がネイティブの英語に触れたのが、NHK「基礎英語」だった。当時12歳、信号も本屋もないド田舎の中学に入学し、生まれて初めて英語を学ぶに、兄たちに勧められたかどうか忘れたが、とにかく毎日夕方聞く習慣ができた。テキストは、家族の誰かが隣町の書店で買って来てくれたはずだが、正確な入手経路は忘れてしまった。中1で「基礎英語」、中2で「続基礎英語」、これで、基本的な英文法はほぼマスターできた。中3では「英語会話」を聞いていた。中学で3年間英語を教えてくれた白石先生の熱心さとこのNHKラジオ講座のおかげで、愛媛の県立ではトップとされる進学校・松山東高校に入ったとき、私の英語力は、地元松山の中学卒業生に引けを取らないレベルだったと思う。

〈官僚時代にチャンスあった〉

 海外在住の話に戻そう。霞が関の官僚には、海外留学・赴任のチャンスは結構ある。まず、入省後数年くらいの若手には人事院の行う海外留学制度があった(もちろん、人事院の試験にパスしなければならない)。私の同期では、唯一山下君(現伊豆の国市長:群馬の地より静岡の山下市長を応援しています | 河辺啓二 kawabekeiji.com)が米国の大学に留学した。その頃の私は、「日本大好き男」だったのか、海外に行ってみたいという気持ちが微塵も起きなかったようだ。

 次のチャンスは、農蚕園芸局繭糸課にいたとき、「フランスのリヨンにある絹業協会にいる人(農水キャリアの先輩)がもうそろそろ帰国して来るけど、河辺君、後任で行ってみる?」と打診されたことがある。海外赴任手当もついて結構貯金ができるらしかった。そのときも、(当時20歳代の若さだというのに)今更フランス語を習得できないなぁなんて考えて辞退してしまった。今思えばおのれの愚かさを悔いるばかりだ。

 無理もない。官僚やめる前の32歳のときが、恥ずかしながら海外初体験なのだ。出向先の総務庁(現総務省)人事局在任中、ILO(国際労働機関)の会議への日本政府団の一員としてジュネーブに4週間くらい滞在したことが、私にとって生まれて初めての外国体験であった。したがって、この海外出張のときまで外国がどんなところか全く実感がなく、関心もなかったのだ。役所の仲のいい後輩に「河辺さんはスーパードメスティック(超国内)」と言われたほどだ。

〈官僚続けていたら更なるチャンスあり〉

 もう少し官僚を続けていれば、「一等書記官」などの肩書で、欧米の先進国の大使館やEUなど国際機関に勤務するチャンスが拡大していたはずだ。上記の山下君をはじめ他の同期仲間も何人か海外勤務していたようだ。農水省と最も関係のある国連機関といえば、FAO(食糧農業機関)でその事務局本部はイタリアのローマなのだ。農水官僚続けていたら、ローマ在住できていたかも、などと思うことがある。

 今このように思うのも、年取って欧州等に何度か旅行(コロナ禍前)して、「イタリアいいなぁ」「パリいいなぁ」と経験したからであることは間違いないだろう・・・。

 いずれにせよ、遠く過ぎ去った官僚時代を思い出すに、あぁ、アメリカの大学に通っていたかも、フランスに住んでいたかも、ローマ通になっていたかもなどと「妄想」を楽しんでいるのである。

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