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記事一覧

伊方がイカタにならないために

2011.08.01

・・・・・・・・・・・・東日本大震災(11)

〈放射性物質より軽い首相の「脱原発」発言〉
ドイツのように有力な環境政党もなく、イタリアのように国民投票制度もない我が国は、いまだ「国家」としての「脱原発」の方針が固まっていない。レイムダック(死に体)の首相の「脱原発」発言など、今なお福島県の大気中に浮遊する放射性物質より軽いものとなっている。
もちろん、隣接国から電力供給可能なヨーロッパの国と島国日本は事情が異なることはわかる。ただ、世界で唯一の核被爆国で、今回、人類が経験したことのない長期の原発放射能汚染を目の当たりにしている当の日本の為政者が、事故後4か月以上経っても、「脱原発」の方針を旗幟鮮明にしていないとは、誠に情けない。

〈国・電力会社の許され難き懐柔策〉
最近、原発に関する多くの情報を知る中で、最も納得したのは、「国も電力会社も、原発が絶対安全ではないと知っているから、送電コストの小さい、電力需要の大きい人口密集地の近くでなく、送電コストのかかる遠い過疎地に原発をつくる。もし事故が起きたとき、被害が少なくてすむから」という意見だ。まさに正鵠を得ている。莫大な交付金や大量の雇用創出という「分厚い札束」で過疎地の貧しい自治体や住民の頬をぱたぱたと叩いて「ほんのちょっとだけ危ないかもしれないが、この大金やるからいいだろ?」という構図だ。これが日本全国の原発立地市町村で行われて来たのだ。

〈経済停滞は一代、遺伝子異常は末代〉
原発廃止反対の理由としては、原子力発電がなくなれば、電力コストが上昇し、海外へ工場が移転するなど「産業の空洞化」が進んで我が国経済が停滞するとされている。更には、原発及び原発関連産業に携わる多くの人々が失業することも挙げられている。確かにこれらの反対意見は無視できない。しかし、仮に、ストレステスト(耐性検査)をクリアし安全操業が徹底されたとしても、地震大国・日本で今後、福島原発事故のようなシビアアクシデントが起こらない保証は全くない(「ストレステストでは想定できなかった」とでも釈明することだろう)。私たち国民が認識しなければならないのは、放射能汚染は私たち現世代だけでは終わらないことだ。放射能で傷ついた遺伝子は子孫に受け継がれていく可能性が大きい。現にチェルノブイリで被曝した人たちの子に遺伝子異常が生じていることが判明しているではないか。
「産業の空洞化」による経済停滞は、せいぜい一世代止まりだろう。科学技術ポテンシャルの高い我が国は、いずれは自然再生エネルギーが原子力発電の穴を埋めるほどに進化・成長するものと期待してよい。もちろん、直ちに原発を全廃することは日本社会の混
乱を招くことは必至であり、新しいクリーンなエネルギーが大規模に利用できる段階に達するまでは原子力発電は過渡期のエネルギーとし、数十年後には原子力発電から完全撤退すべきだ。それまでの間、国民は、冷暖房・照明を減らす努力・工夫を続け、政府は、節電に協力的な企業の経営や原発関連産業の人たちの転職・雇用に対して支援を行いながら、国全体としては経済停滞を甘受していくことが妥当ではないだろうか。経済を選ぶか、安全と健康を選ぶか、となれば、多くの国民が後者を選ぶに違いない。「経済停滞は一代、放射能汚染は末代」と肝に銘じるべきだ。

〈代替手段のない医療と原発は違う〉
私の従事する医療との比較においても、原発不可欠論は砂上の楼閣となる。
医療において、ミスは許されず「絶対安全」が前提になっている。にもかかわらず、医療過誤事件や薬剤・ワクチンによる重篤な副作用の発生が度々報道される。(医療過誤まで至らない「ヒヤリハット」や軽度の副作用事例だと、無数に潜在している。)
「絶対安全」が不可能だから医療行為は全廃できるか。それはできない。医療に代替するものがない。祈祷や超能力で病気が治るわけではないことは、現代人は知っている。(医療ミスの最小化や副作用問題対策などに政府も医療従事者も鋭意努力しているところだ。)
電力等エネルギーも、現代社会には不可欠になっている。しかし、果たして原子力発電が不可欠なのか。前述のとおり、今後、完璧な安全管理で原発が運用されたとしても、我が国のような地震大国において、今回のような「想定外」のことは起こり得る。明日、「想定外」の大地震が起こるかもしれない。「想定」はあくまで有限であり、無限の「想定」は不可能なのだから「100%安全」はあり得ない。
発電手段が原子力だけではないのだから、医療のように全廃できないという理屈は成り立たない。

〈伊方よ、「イカタ」にならないで〉
四国電力伊方原発は、いつ大地震が来るかわからない、日本最大の活断層「中央構造線」上に建設されており、しかも、現在停止中だが、その3号機は、「人類が遭遇した物質のうち最強の毒物」に属すると言われるプルトニウムを使用する「プルサーマル」発電だ。ひとたび事故が起これば、私の育った大洲市を含め、広範囲の地域、緑深い四国の森や青々とした美しい瀬戸内の海を一瞬にして大量汚染することだろう。「伊方」よ、「イカタ」にならないでくれ。
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今まで主張したことも含め、ふるさと愛媛の伊方原発を念頭において書いたものです。
長くなったため縮約され、2011年7月24日付け愛媛新聞「道標」に掲載されました。

実際の記事は、別コーナー「愛媛新聞「道標」」に載せております。

地震学の基礎は地学

2011.07.29

・・・・・・・・河辺啓二の教育論(3)

今日、ほとんどの国民は、改めて「日本は地震大国だ」という認識を強めている。
地震に関する学問の基礎は地学なのだが、現在の高校ではその地学がほとんど教えられていない。私たちの世代は、高校生のとき、理科は4科目(物理・化学・生物・地学)履修が義務付けられ、地学に関しては、大学入試用に選択しなくても、週1回程度の授業と定期試験が課せられていたものだ。
ところが、「ゆとり」世代になってからは、理科は2科目履修でよくなり、最も不人気の地学の授業が行われている高校が珍しくなり、地学教師は専門外の生物を教える、といった状況になっている。地学が入試で選べない大学も少なくなく、高校の地学を全く勉強していない人が普通というのが現状である。
地学は、地震学のみならず、地質学、火山学、海洋学、気象学、天文学、地球物理学など多岐な学問をカバーする学問であり、高校生時にこれらの基礎を学ぶことは大変意義があると思う。
特に、日本のような地震大国であるにもかかわらず、高校時代、地震に関する学問に一切触れずに卒業してしまうというのはいかがなものだろうか。
今回のような大惨事を経験すると、地震学研究の予算的人的充実強化が求められる。現行のような教育体制が何十年も続くと、将来、地震学の優秀な研究者の数が保たれるのか不安でしかたがない。

脱原発しないまま五輪開催は困難

2011.07.24

・・・・・・・・河辺啓二のスポーツ論(3)

石原東京都知事は、2018年冬季オリンピック開催がお隣の韓国で開催されることが決まっても、2020年夏季オリンピック東京開催への強い意欲を変えていない。客観的に見て(同じアジアの)日本での開催は厳しくなったといえるが、この不利な状況を打開するには、東京のみならず国が一丸となって努力する姿勢が必要である。
それは、日本が原発のない安全でクリーンな国であるとアピールすることと未曾有の大震災からの復興をがんばっている日本を応援してあげようという共感を得ることの二つである。
原発に関しては、まず、ドイツやイタリアのように「原発全廃」を(首相の個人的見解ではなく)国家の方針として旗幟鮮明にすることが不可欠だ。また、現在いまだ完全収束していない福島第一原発の安定化はもちろんだが、福島から始まる廃炉を全国の原発に拡大し、その廃炉後も放射線漏れがないように国の厳しい管理下に置かれなければならない。その際、日本の原発対策が世界的に信頼失墜していることに鑑み、IAEAのお墨付きを受けることも必要だろう。ただ、これらのことの実現には相当年数かかることを覚悟して、立候補すべきだろう。
震災復興について世界からの支援を受けるためには、開催中心は東京だとしても、多数の競技を、東北の被災三県で分散して行う広域開催でなければならない。交通手段の一層の充実・高度化が実現すれば、大きな支障はないだろう。
以上の二つの条件をクリアしてでないと世界の人たちは日本でのオリンピック開催に賛同してはくれないものと考える。

経済停滞は一代、放射能は末代まで

2011.07.23

・・・・・・・・・・・・東日本大震災(10)

国民意識の調査で7、8割もの人が原発廃止を望んでいることがわかっているにもかかわらず、依然として我が国政府は原発維持又は推進の姿勢を保っているように見える(退陣予定の首相の「脱発言」宣言はあまり重くない)。
原発廃止反対の理由としては、原子力発電がなくなれば、電力供給が減り、製造業の生産活動に支障を生じ、海外へ工場が移転するなど「産業の空洞化」が進んで我が国経済が停滞するとされている。更には、原発及び原発関連産業に携わる多くの人々が失業することも挙げられている。
確かにこれらの反対意見は傾聴に値する。しかし、仮に安全操業が徹底されるとしても、地震大国・日本で今後、福島原発事故のようなシビアアクシデントが起こらない保証は全くない。私たち国民が認識しなければならないのは、放射能汚染は私たち現世代だけでは終わらないことだ。放射能で傷ついた遺伝子は子孫に受け継がれていく可能性が大きいのだ。現にチェルノブイリで被曝した人たちの子に遺伝子異常が生じていることが判明しているではないか。
「産業の空洞化」による経済停滞は、せいぜい一世代止まりだろう。科学技術ポテンシャルの高い我が国は、いずれは自然再生エネルギーが原子力発電の穴を埋めるほどに進化・成長するものと期待してよい。
それまでの間は、節電に協力的な企業の経営や原発関連産業の人たちの転職・雇用に対して、政府支援を行いながら、国としては経済停滞を甘受していくことが妥当ではないだろうか。

英語より国語をしっかりと

2011.07.17

・・・・・・・・河辺啓二の教育論(2)

小学5、6年生が、今春から「英語活動」が必修となった。
確かに外国語の習得は、特に「聞く」「話す」については早ければ早いほうがよいのかもしれない。しかし、小学校の修業時間は有限であり、英語の授業の参入により、国語や算数の授業数が減るのではないかと危惧している。
将来の大学受験を見据えなくても、日本社会で生きる大人となるために(昔から「読み書きそろばん」というように)国語と算数は最重要である。母国語もろくに習得しないうちに外国語を学習することが、果たして将来の日本を背負う子供たちにとって望ましいことなのだろうか。
また、私たちは、母国語を介して思考する。母国語の文法力や語彙力がまだ十分に形成されていない年齢のときに外国語の習得を強制されることは、思考能力の発達に負の影響を与えないだろうかという不安もある。
従来どおり中学入学後の12歳からの英語スタートでも決して遅くはないのではないか。12歳の脳は、まだまだ可塑性・吸収性に富んでいる。何もネイティブのような発音などできる必要は全くない。2010年ノーベル化学賞の根岸英一先生だって、(ご自身も認める)「ジャパニーズイングリッシュ」だし、2008年同物理学賞の益川敏英先生にいたっては、堂々と日本語で業績を発表していたではないか。
私自身、田舎の中学入学後、初めて英語を学び、長年努力を重ね、やっと20年後に英検1級に合格するレベルまで達した。その学習過程に後悔や不満はない。

HOT SPOT

2011.07.11

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・パロディー(2)

ドナ・サマーの代表曲「Hot stuff ホット・スタッフ」のパロディーをつくりました。
1979年の大ヒット曲です。洋楽に疎い人でも曲を聞けば「聞いたことがある」と思われることでしょう。
前回の「アイムダウン」でもそうですが、原曲が思い浮かばない方はYouTubeで確認されることをおすすめします。
(今回も、いちおうネイティブチェック受けています)

「脱原発」党の結成を

2011.07.04

・・・・・・・・河辺啓二の政治・行政論(10)

極東の国・日本で起きた、言わば「対岸の火事」を自国のこととして脱原発の方針を固めたドイツ、スイス、更にイタリアなど欧州の国の姿勢を羨望の眼で見るのは私だけではないであろう。
ひるがえって、世界で唯一の被爆国である我が国の姿勢は何だろう。未曾有の長期間にわたる放射能汚染を起こし続けながら、依然として「原発全廃」の方針が打ち出さない政府、そして政策よりも政争に精力を注ぐ「三流」の政治家たちに私たち国民は苛立っている。イタリアのような国民投票への気運も感じられない。
政府や既存の政党が、産業界に気をつかって「脱原発」を明言できない。(政・官・業・学が癒着した「原子力ムラ」がいまだ暗躍しているのだろう。)今のところ「脱原発」を旗幟鮮明にしているのは共産党と社民党という、国会議員の少ない弱小政党のみであり、ほかの政党の原発方針がいまひとつはっきりしない。日本には、ドイツの「緑の党」のような、反原発を掲げる有力な政党が存在しない。
この際、反原発の政治家が結集して新政党、その名も「反原発」党又は「脱原発」党でも結成したらどうだろうか。国民の圧倒的な支持を得るに違いない。もちろん、現在のエネルギー情勢に鑑みれば、一、二年で全原発をなくすことは不可能だから、十年~二十年のスパンで、最終的には日本国内の全原発がなくなるようにすることを使命とし、使命が達成されれば解散する時限政党となってもよいではないか。
なお、原発がなくなるというのは、稼働停止するだけでなく、廃炉になり、以後長期にわたり放射能漏れが完璧に抑えるように監視されることを意味する。

若者よ、ケータイ中毒から脱却せよ

2011.07.03

・・・・・・・・河辺啓二の社会論(7)

WHOから携帯電話の電磁波に発がん性があるかもしれないという発表があった。
このことでやっと日本でも意識されるようになったが、諸外国では以前から若年者や妊婦の使用を制限させていたようだ。「危険性があるかもしれないから」既に使用を制限している他国と「危険性が証明されているわけではないから」使用制限をしない我が国の為政者の姿勢の相違が明白である。「原発が安全ではないと証明されているわけではない」と業界寄りの杜撰な原子力安全行政を行ってきた日本政府の態度を彷彿とさせる。
これまで、私は、四六時中携帯電話を手放さない若者たちを見ると、「ケータイから発せられる電磁波はあなたたちのDNAを傷つけているのかもしれないのですよ」と言いたい気持ちになったことが度々ある。私たちは、ただでさえ家電などから発せられる電磁波に、毎日囲まれて生活している。放射線ほどではないにしろ、大量でなくても持続的な電磁波を浴び続けるとDNAを傷つける可能性が高まることを、ケ-タイを手放せない、特に若年者たちは認識してほしい。放射線と同様、年齢が若いほどDNAのダメージ、発がんのリスクが大きいと考えられるのだ。
現在、我が国国民の多くは、節電への取り組みで、快適な生活からの転換を図ってきている。つい数十年前までは携帯電話などなかったわけだし、エアコンと同様に、利便性への過度な追求は改め、ケータイの使用は、緊急時に限定するなど、最小限にしてはいかがか。

MELT DOWN                   

2011.06.30

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・パロディー(1)

ビートルズの「I’m Downアイムダウン」のパロディーをつくりました。1960年代半ばのビートルズコンサートの最後によく演奏されていた曲で、個人的には大変好きな曲です。ただ、ビートルズファンでない人にはあまり知られていない曲ですね。(ネイティブチェック受けています)

「八日目の蟬」

2011.06.06

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・・・・・・・・・・・河辺啓二の映画論(3)


〈「八日目の蟬」〉

先日、たまたま出かけ先で時間があったので、「八日目の蟬」という映画を観た。角田光代の小説が原作で、「母性」をテーマにしたサスペンス作品とされている。子供を誘拐した女・希和子の5年半の逃亡劇と、事件後、大人になった子供・恵理菜の葛藤を描くものである。

映画は、それはそれでよかった。私の中での邦画ランキングでは、「ノルウェーの森」より上、「母べえ」より下って感じかなぁ。

ところが、その映画を観た直後に、同じ作品がNHKドラマで放映された。昨年放映されたものの再放送だった。昨年TV放映があったとは知らなかった。45分ものの6回分なので、実質映画の倍以上の長さのせいか、その分見応えがあったと思う(当然主要な登場人物も多くなる)。


〈映画とTVの違い〉

映画では、成人となった恵理菜(井上真央)が主人公として描かれていたようだ。ところが、テレビでは希和子(檀れい)が主人公だった。(ともに最も売れている女優を主役としたようだ。)

例えば、映画では、恵理菜と恋人・岸田(井上真央の恋人役が劇団ひとりとは・・・)との交際が多く描写されていたのに、過去の回想シーンがメインのテレビでは、成人した恵理菜の恋人役(岡田浩暉:太田市新田木崎町出身です。)は、ほんの少ししか登場していなかった。

私としては、誘拐犯であり「母」である希和子が主人公という設定のほうが引き込まれた感がある。


〈不自然な点〉

ノンフィクションにどっぷり浸かった人生を歩んできた私は、どうしても、こういうドキュメンタリーでない作品を観ると、不自然なところが気になってしまう。

原作を読んでないから、原作でどのように書かれているか知らないが、最も不自然感を抱いたのは、希和子が赤ん坊の恵理菜を誘拐する場面だ。抱っこしているうち(自分が子供をつくれない身体になったため)その可愛さのあまりそのまま自分の子にしてしまおうという衝動に駆られた気持ちは理解できる。私が不自然だと思うのは、そんな生後数か月の赤ちゃんを自宅に置いたまま(ほかに家人もなく)、しかも、家の鍵をせずに両親そろって外出してしまうことだ。このことは、映画でもテレビでも同様のシチュエーションで描かれていた。施錠もせず、赤ん坊をベッドにひとり寝かしたまま出かける親っているのだろうか・・・。

あとは、恵理菜の赤ん坊・幼女時代と大学生時代という、どうしても15年という年月の差があるため、もともとの成人役の登場人物がその分「老ける」必要があるのだが、例えば映画で写真館の主人が15年後全く変わっていなかったことがやや不自然。まぁ、60歳代も70歳代もあまり変わらないということか。ただ、15年前に1度だけ撮影に来たお客を、しかも15年経って成人して顔が変わっているにもかかわらずこの主人が覚えているという設定はムリがある。

更に、付け加えると、上述のとおり、人気女優・井上真央の恋人役が劇団ひとりというのはいかがなものか。もっと二枚目が演じると思われていたのでは・・・。(それにしても井上真央は大女優になりそうだ。今、朝のNHK連ドラ「おひさま」で明るい「太陽の」陽子を演じているが、この映画では(数奇な半生を経ているだけに)暗い人物・恵理菜を見事に演じていた。)


〈顛末がいまひとつ・・・〉

映画では、結局成人した恵理菜は、希和子と再会していない。というか、警察に逮捕された後の希和子は描かれていない(時間の都合上か)。テレビでは、恵理菜が小豆島行きフェリーの岡山港で再会したかのように見えたが、やや尻切れトンボの感は否めない。原作がどうかわからないが、どちらも、その後の恵理菜と希和子の接触は極めて曖昧とされており、私たち観る者の想像に任されているかのようである。

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